浜を歩く

浜の歴史・文化


鯨鯢供養塔(呼子町小川島)
小川島を中心とする捕鯨は「西海捕鯨」といわれており、三陸、紀州、土佐とともに日本の4大捕鯨の一つに数えられています。西海捕鯨は、17世紀初頭に当時紀州で捕鯨の突取法で大きな成果をあげていたことから、肥前大村藩の深澤儀太夫 […続きはこちらへ]


魚見台跡(浜玉町)

浜玉町の魚見台公園は、浜崎の漁師たちが、明治から大正にかけて、季節にごとに回遊してくる魚群をいち早く見つけ、効率よく漁獲するために見張りをたてた場所です。日本では、明治時代から全国各地に魚見台がありましたが、現在は魚群探 […続きはこちらへ]


遠見番所公園とおみばんどころこうえん―(肥前町)

遠見番所(とうみばんどころ)は、江戸時代に外敵の侵入や船舶の不法行為を見張るために設置された施設で、兵士が日夜駐留し、何かあれば烽火台(のろしだい)を使い、連絡していました。遠見番所跡は各地に残っていますが、公園化してい […続きはこちらへ]


番所の辻(馬渡島)

幕末の黒船来襲を恐れていた頃は、ここに沿岸防備のために遠見番所を設け、黒船を発見すれば烽火をあげて名護屋の大庄屋に知らせ、名護屋からは唐津城まで早馬を走らせていたということです。この烽火の跡が展望台のすぐ北側に残っていま […続きはこちらへ]


鯨鯢供養塔(呼子)

鯨組主の三代目中尾甚六が、子鯨を身ごもっていた鯨を誤って殺してしまったため、その霊を慰め供養するために、宝暦5年(1755)に鯨1頭分の代価全額を当てて建立した龍昌院の中に立てられています。呼子の捕鯨については、呼子町で […続きはこちらへ]


鯨見張所(呼子町小川島) 

小川島の鯨見張所は、中尾氏が捕鯨を行った江戸から明治の初めまでの間、捕鯨の最前線基地でした。漁の開始(組出し)は10月下旬から11月初旬で、組出しに際しては組主の館(中尾邸)で出漁祝いの宴会が催され、その勢いで前線基地の […続きはこちらへ]


漁港の恵比寿さん

恵比須さんは、一般的にはいざなぎの尊といざなみの尊の間に生まれた蛭子尊(ひるこのみこと)とされています。 恵比須さんは、皆さんもご存じのとおり狩衣(かりぎぬ)をまとい、頭には風折烏帽子(かざおれえぼし)をかぶられています […続きはこちらへ]


浜の自然

玄海海中展望等(唐津市鎮西町波戸岬)

日本海では唯一の海中展望塔として、昭和49年に名護屋城博物館から北へ車で5分の波戸岬にオープンしました。展望塔のデッキからは玄界灘の島々を、海中の展望室の窓からは熱帯魚や海藻、貝類等を自然のまま見ることができます。 […続きはこちらへ]


松浦潟(唐津市)

「潟」は、遠浅の海岸で潮が引けば海底が露出する海域のことで、貝等の漁場にもなっています。しかし、埋め立てやすいことから現在全国でそのままの状態で残っている潟は少なく、地名として残っているところが多いようです。松浦潟は、 […続きはこちらへ]


立神岩(唐津市湊町)

周囲6M、高さ30Mという2つの巨大な玄武岩からできている立神岩。2つの岩が寄り添うように立っているため「夫婦岩」とも呼ばれます。海岸は人気のサーフィンスポット。  […続きはこちらへ]


七ツ釜(唐津市湊町)

玄海国定公園内の荒波に浸食されてできた7つの洞くつで、1925年に「屋形石の七ツ釜」として国の天然記念物に指定されています。穴の奥行きは最大110メートル。昔、神功皇后が朝鮮出兵の際、ここの岬に戦勝祈念のため土器を捨てた […続きはこちらへ]


いろは島展望台(肥前町)

伊万里湾大浦浜地先に浮かぶ大小48の島々。昔、弘法大師が当地を訪れたときに「いろは」の48文字にちなみ「イロハ島」と命名されたそうです。近くには、童話「ピーターパン」をモチーフに造られた遊びと冒険の島「花と冒険の島」や国  […続きはこちらへ]


風のみえる丘公園(呼子町加部島)

呼子大橋で結ばれている加部島にあり、北には玄界灘、南には呼子漁港と名護屋城跡が望めます。 風車はプロペラ型風力発電機として実動中、館内の照明等に利用されています。中は売店や軽食もあります。 […続きはこちらへ]


いまり夢みさき公園(伊万里市福田)

伊万里市中心地から北へ約10kmの黒川町福田にあります。伊万里らしく焼き物をモチーフとした遊具や、長さ45mもの草スキー場、ゆったりとした芝の広場があり、子供から大人まで安心して楽しく過ごせる公園です。近くにはイマリンビ  […続きはこちらへ]


唐津の離島

高島-たかしま-(唐津市)

高島の周りには3つの定置網が設置され、1年中多様な魚介類が漁獲されています。宝当(ほうとう)神社は、名の縁起のよさから参拝にくる人で賑わっています。また、漁協女性部が島で水揚げされた魚を使って作った「宝当てんぷら」はまさ  […続きはこちらへ]


神集島-かしわじま-(唐津市)

昔は柏島であったが、その後神功皇后が朝鮮の新羅(しらぎ)に出兵した時に神々を集めたことから現在の漢字が当てられたと言われています。万葉集にも登場する島は、今は玄海で一番大きな定置網が設置され、潜水漁業等も行われています。 […続きはこちらへ]


小川島-おがわしま-(唐津市呼子町)

1600年頃から始まり、昭和初期まで行われていた捕鯨で栄えた島です。島には捕鯨に関する史跡がたくさん。現在は、イカ釣りやアワビやウニなどを獲る潜水漁業が盛んで、小川島ならではの水産加工品製造も盛んです。 […続きはこちらへ]


加唐島-かからしま-(唐津市鎮西町)

佐賀県最北端の島。百済第25代国王・武寧王の生誕地とされ、日本書紀では各羅島とされています。現在は、イカ釣り漁業やアワビ養殖などが行われ、椿の産地でもあります。 […続きはこちらへ]

松島-まつしま-(唐津市鎮西町)

江戸時代の対馬の殿様であった宗氏が、江戸への参勤交代の途中遭難したときに、松島の島民に助けてもらったお礼として島民に宗という名前を贈ったと伝えられています。現在は、島の周辺の豊かな磯で潜水漁業によるアワビ、ウニ等が獲られ […続きはこちらへ]


馬渡島-まだらしま-(唐津市鎮西町)

遣隋使の時代から大陸へ渡るときの「風待ち・潮待ち」の場とされていたようです。その後も元軍上陸や、秀吉の朝鮮出兵の前線基地となっており、大陸との交渉に必ず浮かんでくる島です。江戸時代は唐津藩の馬の放牧場とされ、1800年頃  […続きはこちらへ]


向島-むくしま-(唐津市肥前町)

江戸時代に遠見番所が置かれ初めて人が住むようになった島です。現在は、採貝藻を中心とした漁業が行われています。 […続きはこちらへ]